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コンニャク煉瓦
コンニャク煉瓦の擁壁01
島内を歩いていると、たしか高島行政センターの近くだったと記憶していますが、煉瓦積みの擁壁を見つけました。昔の擁壁は石積みが普通で、煉瓦の擁壁は初めて見ました。現地に掲示してあった説明板によると、これは明治20年頃に炭坑開発のために建設された道路とともに築かれたもので、蒟蒻煉瓦(以後はコンニャク煉瓦と表記)を使っているとのこと。

コンニャク煉瓦とは、明治維新前後の一時期に長崎で生産された煉瓦で、現在の一般的な煉瓦よりも薄くて長い扁平な形からそのように呼ばれています。オランダ海軍の技術将校だったハルデスが指導をしたことからハルデス煉瓦ともいいます。煉瓦の歴史を説明すると長くなってしまうので、興味のある方は末尾のリンク先を参照してください。
コンニャク煉瓦の擁壁02
コンニャク煉瓦が生産されたのは長崎なので、使用箇所も長崎に限られます(と、今のところ考えられています)。コンニャク煉瓦を使ってまず建てられたのは、長崎製鉄所という名前の造船所でした。竣工は1861(文久元)年。艦船建造に必要な鉄の生産も行ったことから、製鉄所という名前が付いています。現在の三菱重工長崎造船所ですね。残念ながら当時の建物は残っていません。
長崎文化ジャンクション長崎文化百選事始め編42 近代造船

現存する日本最古の煉瓦造建築物は、薩摩藩とグラバーが協同で長崎に建設した小菅修船場(通称ソロバンドック)というメンテナンスドックのウインチ小屋です。ここの壁にコンニャク煉瓦が使われています。他にも長崎市内の西洋建築に使われているはずですが、現在どこに残っているかといった情報は、私がネット上を調べた範囲では見つからず。
長崎文化ジャンクション長崎文化百選事始め編75 赤煉瓦78 ソロバンドック

高島のコンニャク煉瓦は今回の擁壁の他に先日紹介したグラバー別邸跡にも残っています。

古い煉瓦遺構は、(私は見落としましたが)南洋井坑という北渓井坑と同じくらい古い初期の炭鉱跡やその近辺、そして中ノ島にも存在します。中ノ島とは高島・軍艦島の近くに浮かぶ小さな島で、ここにも昔は炭鉱がありましたが現在は無人島。南洋井坑と中ノ島の情報はKurosawaさんのブログ廃墟徒然草で知りました。下記エントリーの#21・22で初期の煉瓦はわずかな年代の違いでも寸法に差があることが示されています。
廃墟徒然草 −Sweet Melancholly−中ノ島 > 【特集】中ノ島 #22(高島の南洋井坑)
#02#04#15#21(中ノ島の煉瓦遺構)
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上記ブログの関連エントリーの追記
小菅修船場 #01#02#03
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さらに付け加えると、Kurosawaさんは#22で西表島の炭鉱にもコンニャク煉瓦がある可能性を指摘しています。西表炭鉱は明治の半ばに採掘が始まった炭鉱で、Kurosawaさんが言及されているのはその中のひとつ、大正末期に操業を開始した宇多良炭鉱の煉瓦遺構。僻地での生産のために品質のバラツキが激しかっただけかもしれませんが、コンニャク煉瓦が未成熟な技術の産物であることを考えれば、可能性がないとは言い切れません。それにしても、あんな南の島にまで炭鉱があったとは驚きました。
廃村と過疎の風景「南の島の廃村と炭鉱跡 '98年若夏」〜沖縄県竹富町網取・宇多良 1998年5月
やしの実大学太平洋総合講座ゼミ 第4回やしの実大学公開講座 in 八重山講演:密林に消えた島の近代史 −西表炭坑が物語るもの−(PDF)

最後にもうひとつ。日本で作られた最初の煉瓦はコンニャク煉瓦ではありません。江戸時代の末期に日本人が独力で建設した反射炉(製鉄炉)に使われた耐火煉瓦がいちばん最初。韮山反射炉が現存します。ただし、外部は石造で内部が煉瓦造という構造なので、純粋な煉瓦造とは言い難いし、要するに焼き釜なので建築物ではありません。なお、この耐火煉瓦を作る課程で建築用の普通煉瓦が作られた可能性が指摘されていますが、現物は発見されていません。
大成建設エンターテイメントBooks & Films建設はじめて物語煉瓦
| 近代化遺産 炭鉱 長崎県 | 22:16 | comments(3) | trackbacks(0) |
蒟蒻煉瓦に関して、凄く体系的にまとめられているので、とてもわかりやすかったです。拙blogは、所謂盲目の人が像の鼻だけさわっているような状態なので、TBでこの記事を読まれた方も凄くはっきりするんではないかと思います。

アップされている煉瓦の擁壁はまだ見学したことがありませんが、写真を拝見する限り、上の写真はコンニャクっぽく、下の写真は豆腐っぽく見えますね。中ノ島の記事でも書きましたが、煉瓦の比率は写真だとなかなか判断しにくいのが困りものです。行政センターの近くということなので、やはり南洋井坑や尾浜坑、あるいは中山坑(いずれも明治前半に開坑)時代に造られたモノでしょうか。

長崎の煉瓦の事を調べているときに感じたことは、蒟蒻煉瓦のはじまりは随所に書かれてあっても、その終わりがどこにも記述されていなかったことです。果たして大正でも、また昭和に入っても造られたのか、それとも極明治前半の一時期に限られるのか。そして通常の豆腐煉瓦で建築用のものが、同時に造られていたかどうかも見つからなかったことです。

また宇多良炭鉱の操業が昭和8年というのは、リンクされている『八重山>講演:密林に〜』中の年表に書かれてありましたが、この三木健氏の著書『写真集 西表炭鉱』には、大正14年には既に操業していて、昭和8年に社名変更、昭和10年に起工。と書かれてあります。ご参考までに。

いずれにせよ西表炭鉱の中では後発に入る宇多良に蒟蒻煉瓦があったとすれば、相当長い期間にわたって蒟蒻煉瓦は造られていたことになりますが、これが長崎の技術を使ったものなのかどうかも問題になるところだと思います。

長崎、西表を含めて次回からの見学の時は必ずサイズを測るようにしようと思っています。
 
| 廃墟徒然草 | 2006/03/23 10:59 AM |

>この三木健氏の著書『写真集 西表炭鉱』には、大正14年には既に操業していて、昭和8年に社名変更、昭和10年に起工。と書かれてあります。

ご教示ありがとうございます。修正しました。

>果たして大正でも、また昭和に入っても造られたのか、それとも極明治前半の一時期に限られるのか。

私見ですが、JES(JISの前身)でレンガの寸法が210×100×60mmと決まった1921(大正10)年が節目ではないかと。一般に厚さが薄いとそれだけ部材数が増えますからコストも手間もかかります。したがって、生産技術が上がるにつれて厚さも徐々に増したはずです。建築学会や産業考古学会などの論文集を読めば何か分かるかもしれませんが…。
| tks@管理人 | 2006/03/23 9:38 PM |

煉瓦の寸法が決まった年を考えると、
もしかしたら宇多良の煉瓦は、
品質のバラツキの産物かもしれませんね。
機会があったらすこしづつ調べてみようと思います。
 
| 廃墟徒然草 | 2006/03/24 4:02 PM |










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