2006.03.22 Wednesday
コンニャク煉瓦
![]() 島内を歩いていると、たしか高島行政センターの近くだったと記憶していますが、煉瓦積みの擁壁を見つけました。昔の擁壁は石積みが普通で、煉瓦の擁壁は初めて見ました。現地に掲示してあった説明板によると、これは明治20年頃に炭坑開発のために建設された道路とともに築かれたもので、蒟蒻煉瓦(以後はコンニャク煉瓦と表記)を使っているとのこと。 コンニャク煉瓦とは、明治維新前後の一時期に長崎で生産された煉瓦で、現在の一般的な煉瓦よりも薄くて長い扁平な形からそのように呼ばれています。オランダ海軍の技術将校だったハルデスが指導をしたことからハルデス煉瓦ともいいます。煉瓦の歴史を説明すると長くなってしまうので、興味のある方は末尾のリンク先を参照してください。 ![]() コンニャク煉瓦が生産されたのは長崎なので、使用箇所も長崎に限られます(と、今のところ考えられています)。コンニャク煉瓦を使ってまず建てられたのは、長崎製鉄所という名前の造船所でした。竣工は1861(文久元)年。艦船建造に必要な鉄の生産も行ったことから、製鉄所という名前が付いています。現在の三菱重工長崎造船所ですね。残念ながら当時の建物は残っていません。 長崎文化ジャンクション > 長崎文化百選 > 事始め編 > 42 近代造船 現存する日本最古の煉瓦造建築物は、薩摩藩とグラバーが協同で長崎に建設した小菅修船場(通称ソロバンドック)というメンテナンスドックのウインチ小屋です。ここの壁にコンニャク煉瓦が使われています。他にも長崎市内の西洋建築に使われているはずですが、現在どこに残っているかといった情報は、私がネット上を調べた範囲では見つからず。 長崎文化ジャンクション > 長崎文化百選 > 事始め編 > 75 赤煉瓦、78 ソロバンドック 高島のコンニャク煉瓦は今回の擁壁の他に先日紹介したグラバー別邸跡にも残っています。 古い煉瓦遺構は、(私は見落としましたが)南洋井坑という北渓井坑と同じくらい古い初期の炭鉱跡やその近辺、そして中ノ島にも存在します。中ノ島とは高島・軍艦島の近くに浮かぶ小さな島で、ここにも昔は炭鉱がありましたが現在は無人島。南洋井坑と中ノ島の情報はKurosawaさんのブログ廃墟徒然草で知りました。下記エントリーの#21・22で初期の煉瓦はわずかな年代の違いでも寸法に差があることが示されています。 廃墟徒然草 −Sweet Melancholly− > 中ノ島 > 【特集】中ノ島 #22(高島の南洋井坑) #02、#04、#15、#21(中ノ島の煉瓦遺構) _____________________________________________ 上記ブログの関連エントリーの追記 小菅修船場 #01・#02・#03 _____________________________________________ さらに付け加えると、Kurosawaさんは#22で西表島の炭鉱にもコンニャク煉瓦がある可能性を指摘しています。西表炭鉱は明治の半ばに採掘が始まった炭鉱で、Kurosawaさんが言及されているのはその中のひとつ、大正末期に操業を開始した宇多良炭鉱の煉瓦遺構。僻地での生産のために品質のバラツキが激しかっただけかもしれませんが、コンニャク煉瓦が未成熟な技術の産物であることを考えれば、可能性がないとは言い切れません。それにしても、あんな南の島にまで炭鉱があったとは驚きました。 廃村と過疎の風景 > 「南の島の廃村と炭鉱跡 '98年若夏」〜沖縄県竹富町網取・宇多良 1998年5月 やしの実大学 > 太平洋総合講座 > ゼミ 第4回やしの実大学公開講座 in 八重山 > 講演:密林に消えた島の近代史 −西表炭坑が物語るもの−(PDF) 最後にもうひとつ。日本で作られた最初の煉瓦はコンニャク煉瓦ではありません。江戸時代の末期に日本人が独力で建設した反射炉(製鉄炉)に使われた耐火煉瓦がいちばん最初。韮山反射炉が現存します。ただし、外部は石造で内部が煉瓦造という構造なので、純粋な煉瓦造とは言い難いし、要するに焼き釜なので建築物ではありません。なお、この耐火煉瓦を作る課程で建築用の普通煉瓦が作られた可能性が指摘されていますが、現物は発見されていません。 大成建設 > エンターテイメント > Books & Films > 建設はじめて物語 > 煉瓦 |


